また、風街で会いましょう。

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 昨日も書いたけど、日本武道館での松本隆さんの作詞活動50周年記念コンサート「風街オデッセイ2021」に行ってきた。4日と5日、2日間開催されて僕が行ったのは5日だった。申し込んだのは緊急事態宣言下でコロナの脅威に怯えていたような時だったので、チケットが当選して喜んだものの、本当に開催されるかどうかは半信半疑だった。だけど、緊急事態宣言も解除され、地雷を踏まないように暮らしていた最悪な状況からはなんとか脱した状況だったので、無事に開催されることになって本当に良かった。そして、出演者にご高齢の方も多いので、誰もコロナに感染しなくて良かったとも思った。
 3年前のエリッククラプトンの来日公演以来、久しぶりの武道館だったけど、観客の層はその時とあまり変わっていないか、もう少し若いか、といった高齢の方々が大半で、時折中年層と若者たちの姿が見られた。はっぴいえんどのステージを観たことがある、という人もいるかもしれない。その時、はっぴいえんどを聴いていた人たちは、解散後に松本さんが職業作詞家になって歌謡曲シーンで活躍する様を見て、なんて思ったんだろう。
 そんな事を考えながら、コンサートは17時30分の開演時間を少し回ってから始まった。1曲目はナイアガラトライアングルvol.2の「A面で恋をして」。歌ったのはこのユニットに参加した杉真理さんと、当時の佐野元春バンドのバンマスでvol.1のメンバーで大瀧さんの愛弟子だった伊藤銀次さん、そして大瀧さんのパートを歌ったのは鈴木茂さんだった。当たり前だけど1曲目から泣いた。こんな組み合わせが実現するんだ、このコンサートは。そう思うと感動したし、なんだかとんでもないところに来てしまったと感じた。その後も豪華なゲストが次々と登場した。松本さんの盟友である南佳孝さんが「スローなブギにしてくれ」と「スタンダードナンバー」を歌い、鈴木茂さんと林立夫さんを迎えて「ソバカスのある少女」をやった。そして林さんはそのまま残って、茂さんが「砂の女」と「微熱少年」をやった。エイプリルフールからの仲間である小坂忠さんが「しらけちまうぜ」と「流星都市」を歌った。涙が止まらなかった。レコードやCDでしか聴いていなくて、まさか生で聴けるなんて思いもしなかった曲が目の前で聴いてるんだから、泣かない方がどうかしている。どうしようもないので、ハンカチを膝の上に置いていた。こんな体験久しぶりだった。
 堀込泰行畠山美由紀ハナレグミがそれぞれソロで登場した後、3人で「真冬物語」を歌った。松本さんの活動45周年記念の際のトリビュートアルバム「風街であいませう」でクラムボンがカバーして知った「星間飛行」を中島愛が歌った。EPO竹内まりやさんの「セプテンバー」を歌った(当時高校生だったEPOはこの曲にコーラスで参加している)。その他、稲垣潤一、阿部泰弘、さかいゆう藤井隆(歌が上手いので驚いた)、星屑スキャットミッツマングローブが出ていた)、中川翔子、クミコといった人たちが登場したけど、圧巻だったのは吉田美奈子で、なんと松田聖子の「瑠璃色の地球」と「ガラスの林檎」を歌った。これは凄まじいもので、場内破れんばかりの拍手が起こり、コロナ対策でスタンディング禁止だったけど、そうじゃなかったらスタンディングオベーションになるところだった。井上鑑音楽監督としたバックバンドも見事な演奏だった。
 そして、この後にはっぴいえんどが登場した。中央で松本さんがドラムを叩き、細野さんがベースを弾き(細野さんが人前に出るのも久しぶりだ)、茂さんがギターを弾く。こんなシーンを観ることができるなんて夢のようだった。でも夢なんかじゃない。目の前に、大瀧さん以外のはっぴいえんどのメンバーがいて、はっぴいえんどを演奏する。興奮が最高潮に達した。バックは井上さんがピアノ、吉川忠英さんがアコギ、そしてはっぴいえんどのバックもやっていた鈴木慶一さんがオルガンを担当していた。「はないちもんめ」(アタマで茂さんが間違えてもう一回やった)をやった。慶一さんのボーカルで「12月の雨の日」をやった。茂さんがベースを弾いて、細野さんがアコギを弾いて、「風をあつめて」をやった。猛練習したという松本さんのドラムは見事だった。「僕がドラムを叩けばはっぴいえんどになる」と以前インタビューで語っていたように、まさにはっぴいえんどだった。もちろん、ずっと泣いていた。そりゃあそうだよ。「風をあつめて」のドラムを松本さんが叩いてて細野さんが歌っている。奇跡のような正夢だった。コンサートはこれで終了。最後に松本さんの挨拶があったけど、高校生の頃ビートルズを観た武道館で、自分がドラムを叩いていることを感慨深く語っていた。隣にいた細野さんに「細野さんリハに来ないんだもん」と苦笑したり、茂さんが「松本さん5年後もやろうよ」と言ったり、なんだか3人の絆を見た思いだった。正直言えば、この3人が会して演奏する様を観るなんてこれが最後だろうと思っていた。自分にとっても冥土の土産みたいなもんだと思っていた。だけど、5年後もまたはっぴいえんどが演奏している姿を見たいと思った。また観ることができるかもしれない。そう思った。77歳の松本さんがドラムを叩き、75歳の茂さんがギターを弾き、79歳の細野さんがベースを弾き、「風をあつめて」を歌う。その時は、僕も一緒に歌いたい。その時は僕も60歳。最高の還暦祝いだ。
 松本さんが描いてきた世界は永遠のものだ。小学生の頃からずっと好きで聴いていて、その後にはっぴいえんどを知って、歌謡曲もアイドルもロックもフォークもニューミュージックもJ-POPもアニソンも、僕の感性の大部分は松本さんに作ってもらったと言っても大袈裟ではない。だから、僕は風街の子どもみたいなものだ。ここに来て、松本さんにやっと会うことができた。夢が叶った。そんな気分だった。
 僕は2021年11月5日に松本隆がドラムを叩いているのを見たんだ。はっぴいえんどをやったんだぜ。一生の自慢にしようと思っている。

さらば本山、よろしく御器所。

   以前、チラッと書いたけど、 1989年から住んでいた千種区の本山を離れて、 昭和区御器所に引っ越しをした。 大学を卒業して社会人になってからなので、 かれこれ32年も暮らしていたことになる(長いねぇ)。 同じ住まいにずっと住んでいたわけではなく、 同じ町内で狭い家から広い家に引っ越したので2箇所に住んでいた ことになるけど、 さすがにこれだけ長く暮らしていると思い入れも深く、 去り難い気持ちは大きかった。
 32年前、昭和区の五軒家町から転居した時は、 近くに銭湯が2軒もあり、古本屋が5軒、 新刊書店も2軒あったし、四谷通は名古屋の原宿と呼ばれていて( 呼ばれていたらしい)、 洒落たブティックがたくさん軒を連ねていた。 中古レコード店とレンタルレコード店があり、 ボサノバが流れる小粋なカフェや本格的なスリランカ料理を手軽に 食べられる店があり、チェーン店よりも個人商店の方が多かった。 そのうち無印良品ができたし、 GEOやヴィレッジバンガードができた。 仕事終わって22時頃に本山に帰ってきても立ち寄る店がいくつか あった。日常生活の利便が高い上に暮らす楽しさに溢れていた。
 でも、世の中どんどん不景気になって、 銭湯も中古レコード店も無印もヴィレバンもGEOもなくなってし まった。古本屋は2軒になり新刊書店は1軒だけになった( それでもあるだけマシだけど)。 それからドトールやスタバができたり、 ドラッグストアがいくつもできて、 いつの間にか個人商店よりチェーン店の方が目立つようになり、 つまんない街になっちゃったなと嘆くようになった。
 もちろん昔からずっと残っているミスタードーナッツも毛ケンタッ キーフライドチキンもモスバーガーは健在だし、近くに内科、 歯科、眼科、整形外科と病院が揃っているのもありがたかった。 なんだかんだ文句を言いながらもずっと本山に暮らしていくのかな と思っていたけど、 ちょっとした決意があって引っ越しをしようと思い立った。 本山界隈でも探したものの、めぼしい物件に出会えなくて、 昭和区御器所に住むことになった。
 昭和区に住むのは学生の頃以来で、 御器所はちょくちょく行ってはいたものの、 だいぶ様変わりしていた。 駅前にあったミスドはなくなっていたけど、 西友マクドナルドも健在だったのには驚いたし、 交差点の角にはスタバもあった。 先月の末に新居に越したはいいけど荷物が多すぎて整理ができなく 、10日も過ぎてようやく落ち着いた次第だった。 まだ緊急事態宣言下で飲食店の多くはシャッターを閉めたままだけ ど、近場でランチのやってる店には行ってみた。 西友とマックは徒歩2分の距離にあるし、 コンビニも近くにあるし、美味しい鰻屋と寿司屋、イタリアン、 定食屋があった。自転車も買ったから( なぜか自転車屋がたくさんある。 東山線沿線は自転車屋が本当になくて自転車持っていても修理に持 ってけないので、結局手放してしまった)、今池や吹上、 鶴舞あたりはチャリで通えると思う。
 新居は昭和の遺物のように築年数の古いマンションで、 今まで住んでいたマンションも築年数は古かったものの、 それなりに広くて、 当初はヤマハでやってた仲間たちのたまり場兼宴会場であったし、 マジカルコネクションを始めてからはミュージシャン宿場のように なったけど、 今回は6畳の居間と4畳半の寝室のみなので大勢を泊めることはで きないから申し訳ないけど、
今はこれぐらいが分相応かなと思っている。
 それで、なんで引っ越しをしたかと言うと、 それについてはまたの機会にしたい。ちゃんと書くからね。

令和三年元旦

令和三年元旦

 7時前に起床。例年のようにEテレで能と狂言を途中から観てから、起き出す。とにかく寒い。

外を見ると、前日から降り出した雪が積もっていて、一面銀世界である。仕方ないから、着替えて雪かきをする。顔に吹雪が直撃して冷たいし寒いし堪ったもんじゃない。

 雪かき終わってから、雑煮で朝食。外の雪はまったく止む気配がない。元旦の新聞を見てテレビ欄を見ても観たい番組は皆無だ。なので、読書する。あれこれ持ってきたけど、年末からずっと読んでる深緑野分の「この本を盗む者は」を読む。BGMはラヴィンスプーンフルのベスト、それから昨夜放送されていた「村上レディオ」の特別版を聴く。夕方読了。それから、戦後の進駐軍の基地を拠点としたジャズシーンを描いた灰田高鴻「スインギンドラゴンタイガーブギ」2巻を読む。これは面白い。ジャケットもいいし、QRコードを読み込むとSpotifyでスイングジャズのプレイリストが聴けるのも粋だね。

 午後から映画。正月なので陽気な映画が観たくて「イースターパレード」を久しぶりに観る。フレッドアステアの芸を堪能させてもらう。ストーリーは本当にたいしたことないけど、それをアステアとジュディガーランドの至高の芸で観せてしまうという手腕は見事だ。

 夜は「ナバロンの要塞」を観る。こちらも久しぶり。原作はアリステアマクリーンの冒険小説で、小説自体の筋は覚えていないけど、手に汗握るハラハラとワクワクは映画に生かされている。アンソニークインってフェリーニの「道」にも出演しているけど、振り幅が広いな。ただ、夕飯で酒呑んでいたので、途中途中で寝てしまい、その都度巻き戻して観たのはどうなんだと思うけど。

夜はそのアリステアマクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」を読みつつ、TBSラジオの金曜ジャンクバナナマンゴールドを聴き、就寝。枕元に猫がいて、かまってほしくてなかなか眠れない。

 

 

 

 

2020年が終わる。

    先日、歴史トークライブをやった際、出演者の皆さんに今年がどんな一年だったかを漢字一文字で書いて ください、と依頼したけど、 僕が今年を漢字一文字で表すとしたら、「厄」だろうな、 やっぱり。
 本当に、今年はロクな事がなかった。 昨年末からの多忙が災いして腰を痛めてたら年明け早々に椎間板ヘ ルニアになって即入院。1ヶ月会社を休む羽目になった。 そんな入院中にテレビを見ていたら、 中国の武漢で新型ウィルスが発生していたというのでふーん大変だ 、と他人事のように思っていたら、 退院してしばらくしたらそのウィルスはCOVID- 19というマヌケなロボットみたいな名前であれよあれよと世界中 をコロナ禍に巻き込んでパニックを巻き起こした。 さらに追い討ちをかけるように、自分が言い出した事だけど、 管理職を辞めたいと言ったら給料が思いっきり下がってしまい家計 が大打撃を受けてしまい一気に貧乏になってしまった。 個人的にはコロナショックよりもこっちの方が大きかった。 さらに、うちの母親の家系はみんな長生きなんだけど、 母の兄である伯父さん二人が相次いで急死した。 それから安部晋三がやっと総理大臣をやめてくれたので喜んでいた ら、 管という知性のない陰気な疫病神のような顔した男が総理になって しまった。自民党に自浄機能があるならもうちょっとマシな人( 石破さんとか)を担ぐ筈だったけど、 そういう機能がないことを露呈してしまった。 これを災厄と呼ばないで何と言うんだろう。
 マジカルコネクションは2010年に始めたので今年が10周年に なる。それにあたって、 東京でライブをやる予定だったけどコロナのおかげで中止せざるを えなくなったし、それでも計5回やることができたけど、 条件的に厳しかったし、やるべきかどうか当日まで悩んだりした。 本来だったら毎年12月は東京でクリスマスライブをやっていると ころだけど今年は中止にした。もちろん、 僕はまだ会社員で最低限の収入は保証されているからマシな方だけ ど、 緊急事態宣言や自粛要請でお店を閉じたり時間を短縮したりと振り 回された方々のご苦労はその比ではないから、 あまり愚痴をこぼすのも気がひけてしまう。 コロナさえなければもう少し楽しい出来事も多かったんだろうけど 、こればっかりは仕方ない。

 考えたら、 一年を通してこんなにライブに行かない、映画や演劇も観ない、 旅にも行かない年もなかった。 家にいる時間が多いので本はやたらと読んだし、 映画のDVDやブルーレイもたくさん観る事はできた。 音楽は自粛期間中は新譜を買って聴くより、 買っていたけどちゃんと聴いていなかったCDやレコードをよく聴 いていた。外に出なかった分、 家時間を楽しませてもらったとは思えるけど、 これが来年まで続くのはさすがに勘弁してほしいものだ。 やっぱりライブは行きたいし、映画は映画館で観たいし、 旅にも行きたい。それが僕の生活の基本だから。誰にとっても、 令和二年と言う年は忘れる事のできない一年になったと思う。 後になって、 あの時は大変だったんだよと笑って語れる時が来るかもしれないけ ど、コロナの時代を生きる僕らはまさに時代の生き証人であり、 この災厄がどうであったかを後世にちゃんと伝えていく必要がある 。何が教訓になるかはわからないけど、 歴史の真実を伝える事は大切なのだから。
 どうにこうにも今年は暗い話に終始してしまったけど、 来年はぜひとも災い転じて福と成すような一年であってほしい、 と切に願う。オリンピックはもう開催しなくていいから、 ささやかな日常を取り戻すことができたらそれだけで十分だと思う。

 今年良かった出来事というと、地元のFM局(インターFMのキー局)であるレディオネオが閉局する前、同局で最後の放送となる「バラカンビート」にメッセージとリクエストを送ったら、番組の最後で読まれたことぐらいだろうか。今年は「ライブマジック」が恵比寿ガーデンプレイスで開催できなかったので、ピーターバラカン師匠に会えなかったら、ここが唯一繋がった接点だったと言える。まぁ、些細な事ではあるけど。

 では、 来年が皆様にとって幸多き一年となりますことを心よりお祈りいた します。 マジカルコネクションは多分100回記念ライブができると思う。 できるといいな。よいお年を。

本の話① 入院患者は電子書籍の夢を見るか(見ねぇよ)

 今年は1月の正月明けに郷里から名古屋に戻ってきたとたんに腰を痛めてしまい、新年早々入院してしまった。 椎間板ヘルニアだった。入院するのは初めてではなかったものの、 これまでは大腸ポリープの摘出手術でいいとこ3日ぐらいだったけど、今回は結局2週間以上入院する羽目になった。
 入院なんかしていると退屈だから本がたくさん読める、 と思う人がいるかもしれない。僕も実はそう思っていた。
 しかし、椎間板ヘルニアというのは、とにかく痛いのである。
 食後に薬を飲むと少しはラクになるけど、ちょっと動くと痛い、 動かなくても痛いので、 朝昼夜問わず我慢できないとナースコールを押していた。トイレに行くのもトイレから出るのも大変で、 何度もトイレからナースコールを押したものだ。 あれは情けないものがあったけど、 カッコなんかつけてられなかった。
 そんな風に四六時中痛いから、とにかく集中力が続かない。 だから、本を読もうにも集中して読めないし、 映画も2時間集中できないから観たいと思っても観ることができなかった。テレビはボーッと観てるからいいとして( ちょうど相撲の正月場所がやってたので毎日観ていた)、 あとはネットフリックスで「孤独のグルメ」や「 お父さんと呼ばせて」を観てたり、ラジオをよく聴いていた。 音楽を聴きたいという気持ちにもならなかったので、 FMよりはAM、 主にラジコでNHKTBSラジオを聞いていた。
 しかし、 入院2週間目の中盤ともなると当初と比べるとだいぶよくなったの で、毎日院内にあるファミマへ、歩行器使いながら行って、 新聞買って読んだり、「週刊文春」を買って読んだりもした。 家から唯一持ってきた本は、年末に古本屋で買った横山秀夫の「 64(ロクヨン)」上下巻で、それを仰向けになって読んでいた( 仰向けの体制がいちばんラクだった)。上下巻だし、 読み終わる頃には退院しているだろうと甘い予測をしていたけど、 世の中そんなに甘くなかった。「64(ロクヨン)」 は最初の方はあまりストーリーが入らず、 とっつきにくい話だなと思ったけど、 下巻からは話が怒濤の展開になって、 読み終わるまであっという間であった。
 そんなわけで、 唯一持ってきた本を読んでしまったので読む本がなくなってしまった。こういう場合、家人がいない独身生活は不自由だ。とはいえ、 会社に電話して部下に本買ってきてくれ、 と頼むのも下手すりゃパワハラになるのでやめた( 結局後日見舞いに来てくれる時に、 読みたい本と雑誌を頼んで買ってきてもらったけど)。 院内のファミマにも文庫本が置いてあるけど、 読みたいものではなく、さてどうしようかなと思った時、 そうだキンドルがあるじゃないか、と気がついた。
 とはいえ、別にキンドルの存在を忘れていたわけではなく、 唐突に思い出したわけではなかった。 要するに電子書籍で本を読むという行為に抵抗があったわけだ。 どうも今どきは電子書籍なんてぇものがありますけど、 本なんてぇものは手に持った時の触感やら1枚1枚ページをめくるのがいいんでして、スマホタブレットの画面で読んだりするってのは、 どうもあたしは読んだ気がしないもんでして、 とついつい三遊亭円生みたいな口調になってしまうけど( 落語聞かない人にはよくわかんないだろうな)、 電子書籍で本を読むことに抵抗があったし、 自分には縁がないものと思っていた。
 しかしだ。そうは言いつつも、 本が読めない状況は耐えられないので、仕方なく、 まさに断腸の思いで電子書籍を購入することにした。 キンドルをチェックして、何を読もうかとあれこれ悩み、 挙げ句選んだのが、エラリークイーンの「災厄の町」だった。 なんでエラリークイーンを選んだなのかよくわからないけど、 オーソドックスな翻訳ミステリを読みたい気分だったのかもしれな い。入院してるんだし、 もうちょっと陽気な話にすりゃよかったと思わないでもなかったけ ど。
 ということで、スマホで本を読むなんてさぁ、 と当初思っていたけど、結論から言えばとても読みやすかった。 文字が小さければ拡大できるし、 当たり前だけど持ってて疲れることはないし、 夜中消灯時間過ぎてから読んでいても画面は明るく見やすいし、 これはこれで便利なシロモノだと見直し、 今まで敬遠していてすみません、と頭を下げる思いだった。 本自体も面白かった(クイーンはけっこう陰惨な話が多いけど、 これはそうでもなかった)。

 以来、キンドルをよく利用しているかと言うと、 そんなことはない。雑誌を買うぐらいだ。 海外へ2週間旅行に行くとか(まずないけど)、 実家に帰って読む本読み尽くして、 本屋に行ってもロクに読みたい本がないとか(これは多々ある)、 という時でも安心できる。だけど、 名古屋みたいな都市で暮らしていて、 本屋に行けば読みたいと思う本がたくさんある、 揃えの良い古本屋もある、という状況であるなら、 電子書籍が活躍する機会はなかなか訪れないと言っていいだろう。 入院でもしなきゃね。

モータウンは永遠だ。

 ここんとこ、マイルスディヴィス、ザ・ バンドと音楽関係のドキュメンタリーが相次いで上映されているけ ど(単なる偶然なのかブームなのかわからないけど)、昨日は「 メイキング・オブ・モータウン」を観に行った。 今年で創業60周年を迎えるモータウンの軌跡~ 創業者ベリーゴーディの生い立ちとモータウン設立のいきさつ、 盟友でありモータウンの副社長としてクリエイティブを支えたスモ ーキーロビンソンとの出会い、楽曲制作の方法論、経営方針、 アーティストの発掘と育成など、 デトロイトのインディーレーベルから世界屈指のソウルミュージッ クのレコードカンパニーへと発展した経緯が、 所属したアーティスト(スモーキーロビンソン、f:id:yamagical:20201104203449j:imageティービーワンダー、 生前のマービンゲイ他)、ソングライター、スタッフ、 同時代に生き、 モータウンの隆盛をリアルタイムで見ていたアーティスト( アレサフランクリンなど) の証言を通じてその実像に迫っていく濃厚なヒストリーとなってい る。しかも、え、こんな映像が残っているの? というお宝映像が出るわ出るわで、レコーディングにしろ、 コンサートにしろ、 記録をちゃんと残して保管してあるところが偉いな、 と感心してしまった。貴重なインタビューがたくさんあるけど、 やっぱり創業者である社長のベリーゴーディと副社長( 今は違うかな) のスモーキーロビンソンが健在で元気でいることが大きい。
 もちろん、陽気なサクセスストーリーだけでなく、 60年代という時代背景があって、 ツアー中の出来事などを例に上げて、 黒人だからという理由でどれだけ不当な差別を受けてきたかも克明 に語られていた。 今はトイレひとつ取っても黒人用と白人用に別れていることはない けれど、 差別意識は根底からなくなっていない事実に暗澹たる思いがした。 また、これは不勉強で知らなかったけど、 モータウンは経営陣に白人がいたし、女性の役員がいたり、 レコードを出す際は会議で全員が意見を言い合って決めるという。 60年代としてはずいぶんオープンな社風で、 時代を先取りしていたことがわかった。 ゴーディもスモーキーも20代だったし、 若いからこその旧来のシステムにとらわれない斬新な発想で経営が できたのかもしれない。
 そして、公民権運動やベトナム戦争の激化に伴い、 モータウンも変わらなければならなくなったターニングポイントと して、マービンゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」 が取り上げられていたのは映画のクライマックスとして白眉のシー ンであったし、 いつまでもお仕着せの楽曲と衣装でステージに上がることを嫌がっ たアーティストの代表としてダイアナロスが上げられていたり、 21歳のスティービーワンダーが契約を見直したい、 自分の楽曲を管理したいと言い出したのも印象的だった。思うに、 モータウンは会社ではあったけど学校のような存在だったかもしれ ない。会社であれば終身雇用も当たり前だけど、 学校だったら入学したら卒業もあり、 教師のいいつけに従って勉強し、行動するけど、 自己が目覚めたら自分のやりたいことがはっきりしてくるし、 教師に対して反抗することだってある。だけど、 反抗して飛び出していった生徒たちも、 時が経てばあの頃を懐かしく思い出し、 あの時の経験が大きな財産になったことを誇らしく語っている。 映画は、 ソウルミュージックファクトリーとしてのモータウンの全盛期を紹 介していくので、スモーキーロビンソン& ミラクルズからジャクソンファイブまでの期間に限定している( だからコモドアーズは登場しない)。その期間が、 モータウンモータウンらしい時代だったんだろうな。
 僕はこの映画が作られるにあたって、 下手するとベリーゴーディの自慢話ばかりになるんじゃないか、 と一抹の不安を持っていた。だけど、決してそんなことはなく、 豪腕にして辣腕、頑固なワンマン社長というイメージは希薄で( もっとも若い頃はイケイケで夜中の3時にスモーキーの自宅に電話 して『ショップアラウンド』 をレコーディングし直すから今から来いと言ったという)、 齢80を過ぎているからかすっかり好々爺のようで、 スモーキーとの会話は終始笑顔が絶えず、 観ていて微笑ましくあった。 特にマービンゲイが歌って大ヒットした「悲しいうわさ」 はもともと誰が先に歌っていたかで、 ゴーディとスモーキーの記憶が違うので100ドルかけることにな って、社員に電話をかけて確かめるシーンには笑った。
 この映画は、モータウンの楽曲を、 モータウンのアーティストを愛するすべての人に観て欲しい。 そしてソウルを愛するすべての人に観て欲しい。 ソウルミュージックの発展とそれに心血を注ぎ情熱をかけて取り組 んでいた人たちの業績をぜひ知って欲しい。 後世に残したい素晴らしい映画だ。
 しかし、 モータウンに社歌があるなんてこの映画を観るまで知らなかったな 。元社員がすっかり忘れていたり、歌うのを嫌がっている中、 ゴーディとスモーキーが楽しそうに歌っていたのがおかしかった。 スモーキー作なんだけど、ベタベタな社歌で、 よくこんなの作ったなと思った。

津野米咲がいない世界

 津野米咲が亡くなった。
 そう書いてみたものの、やっぱり現実味がなかった。突然の死、しかも自殺というから、わけがわからなかった。どうして?なんで?と疑問ばかりが浮かんで、考えれば考えるほど悲しみは深まる一方だった。
 赤い公園は、新しいヴォーカリストを迎え、昨年にEP、今年にフルアルバムを発表し、来月には新曲も発表される予定だった。「絶対零度」がアニメの主題歌になったり、来月発表の新曲もドラマの主題歌だったから活動は順風だと思っていた。世間的なブレイクはまだまだとはいえ、初期から応援してきたコアなファン層に、アイドルグループ出身の新ヴォーカリスト石野理子のファンも加わり、バンドの第二章としてはいい調子で展開していったと思っていた。もっとも、今年はコロナの影響もあって、ツアーは中止、フェスも中止とバンドの活動は限定されてしまい無観客配信ライブを行ったりしたので、やりたいけどやれないというジレンマは抱えていただろうけど、それはどのバンドも同じことで、赤い公園に限った話ではなかった。
 とはいえ、僕は決して熱心な赤い公園ファンではなかった。セカンドアルバム「猛烈リトミック」は持っていて好きな曲はいくつもあったけど、ライブに行ったことはなかった。まだメジャーデビュー前に名古屋のサーキットイベントで観たけど、初代のヴォーカリスト佐藤千明の個性が強いものの、あまり音楽は印象に残らなかった。

 しかし、ソングライターとしての津野米咲には注目していた。きっかけは、モーニング娘。16の「泡沫サタデーナイト」というシングルで、僕はこの曲が大好きで、黄金期の「LOVEマシーン」と並ぶ傑作であり、レコード大賞を取ってしかるべきと思っていた。きっとアイドルが大好きで、子どもの頃からモーニング娘。が好きだったからこそ書けた曲だと思うし、ファンとしての思いがあふれんばかりに込められていた。その他、SMAPにも曲を提供していたし、近年はYUKIにも楽曲を提供していた。たとえ赤い公園が長く続かないとしても、コンポーザー、プロデューサーとして津野米咲はメジャーな存在になるものだと思っていた。作詞家としても、どうしてこんな炸裂した詞が書けるんだろうと不思議でならなかったし、メロディメーカーとしての才能も突出していた。
 そんな僕が赤い公園にハマったきっかけになったのが、昨年you tube限定で配信された「ハイウェイカブリオレ」だった。たまたま動画が上がっていたので観たら、あまりの曲の良さに驚いて、それこそ毎日のように観ていて、CDが発売された時にすぐさま買いに行った。6月の名古屋でのサーキットイベントにも行ったし、12月のツアーでの名古屋クラブクアトロにも行った。石野理子は、6月に観た時はまだまだぎこちなく映ったけど、12月に観た時は堂々としたバンドのヴォーカリストになっていたので若者は成長するのが著しいな、と感心したものだった。これからこのバンドがどう転がっていくかを観るのは楽しみでならなかった。
 ヴォーカリストの脱退という未曾有の危機を乗り越え、みんなが赤い公園の今後の活躍を楽しみにしていたのに、どうして自ら開けた幕を自らが閉じてしまっ たんだろうか。この前誕生日を迎えて29歳になった。来月には新曲が発表される。なのにどうして自殺なんかしたのかわからない。計画的なことではなく突発的なことだったかもしれない。ひょっとしたら死ぬつもりなんてまったくなくて、何かの手違いだったかもしれない。いろんなことを詮索したくなるけど、詮索したって時計の針が巻き戻るわけではない。

 今はまだ赤い公園の曲を聴くことができない。だけど、モーニング娘。はいいかなと「泡沫サタデーナイト」のCDを久しぶりに聴いたら涙が出てきた。なんていい曲なんだ、とあらためて実感して、この曲を書いた人がもうどこにもいないんだ、と思ったらたまらない気分になった。悲しいし、悔しいし、腹も立った。死なないでくれよ。もっと長生きしてさ、バリバリギターをかき鳴らして、いい曲いっぱい書いてさ、いい恋してさ、思いっきり人生楽しめばよかったじゃないか。
 赤い公園が今後どうしていくかわからないけど、僕らは津野米咲がいない世界で、これまで米咲が書いてきた曲を忘れさせないように継いでいきたい。こんなにいいバンドがいて、こんな凄いソングライター、ギタリストがいたんだぜ、という事実を伝えていきたいと思っている。そんなことしかできることがないのだから、それをやっていきたい。
 

 謹んでご冥福をお祈りいたします。

ありがとう、米咲。